SATURDAY NIGHT RUN

世界に絶望しないための処方箋

世界に絶望しても4ななくていいと思う

先日、あるyoutube動画を見た。元名古屋市長の河村たかし氏が出演していた。私も現在は愛知県に住んでいるので河村氏は比較的身近に感じる。しかし私の中で河村氏のイメージは悪かった。「名古屋弁丸出しのオリンピック金メダリストの金メダルをかじったおっさん」。だが、彼のやってきたことや考えていることを聞いてイメージが変わったし、私も影響を受けた。

(なお誤解を生まぬよう断っておくが、私は別に特定の政党を支持しているわけではないし、政治的立場からものを主張したいわけではない)

もともと彼は「減税日本」という非常にわかりやすい政党の党首だった。そしてその名前のとおり、彼の在任中、名古屋市は市民税10%削減。これはこれですごいと思うが、この人物が尊敬に値したのは、自らの給料も大幅に減額したこと。名古屋市長ともなれば、本来年収2000万円もらえるのだそうだが、彼はそれを年収800万円まで引き下げたのだという。そして、名古屋市職員の給料も1割減した。もちろん反発は大きかっただろうが、彼はみんなに頭を下げて実行した。

昨今、綺麗事ばかりがならび、個人的事情の内側にまで入り込んでわざわざ他人を非難する風潮があるように感じるが、その非難する人々に、他人を非難する以上、自らも身を切る覚悟を持って物を言っているのか、私は疑問に思わざるを得ない。しかし元市長は、本来得られたはずの報酬をそこまで切り詰めて範を垂れる覚悟をもった気骨ある人物なのだった。

だが、それよりも元市長の志の高さに私はより感銘を受けた。

元市長が最も注力したかったのは、青少年の自殺を防ぐことだったと。これからの未来を作る若者たちの命を守りたかったのだと。

名古屋市(愛知県であったか?記憶があいまいであるが)では、毎月1人は中高生の自殺者がいるのだそうだ。「原因は何だと思う?」と元市長が問うと、MCは「いじめですか?」と返したが、違うという。いじめが原因の場合もあるが、最も多いのは「世の中に絶望した」ということなのだそうだ。現代社会は、若者たちを絶望させ、月に1人の青少年が自らの命を絶ってしまう世の中なのだ。

元市長は、こういった悲しい現実を市長という立場で解決をしたかったのだという。

 

 

翻ってみると、私自身も自ら命を絶ってしまう若者たちの気持ちはわからないわけでもない。

私自身も若い頃は、否、そして今においても、自分に対して、世の中に対して絶望していると言えば言える。ただ、自ら命を絶ってしまう方々と違って、幾分環境的に恵まれているし、命を絶つことを考えるまでのレベルの絶望をしているわけではないという点において、私は自殺などは考えたことはないのである。

ただ、私自身も元市長が言っていたこの事実を知って非常に衝撃を受けた。

若くして命を絶ちたいと感じてしまうほど、彼ら彼女らは過酷な状況にあったのかと思うと、悲しい気持ちになるし、自分の立場でなにかできることはないのかという思いになる。状況は様々であったろう。一概にこういう対処をすれば解決するとか、そういう単純な話ではないとは思う。ただ、これまで40年以上この世の中に生きてきた者として、世の中が未だそういう状態にあるということに、私自身のこれまでの生き様に微量なりとも責任はあるだろう。つまり、若者たちが失望しない世の中を作ることに何ら貢献せず、利己的に生きてきたという意識の低さに対する自己嫌悪とも言えようか。

 

 

もし、少なからず世の中に失望し、自らの命の可否について悩むような瀬戸際にある諸子がこの文章を読んでいたとするならば、私に一体どのようなことができようか。本当に思い詰めているのであれば、一刻も早く、専門の医療機関や行政の相談窓口を頼るということをしてほしい。ただ、私のできる範囲、つまり、本当に切迫した状態ではなく、程度のそこまで重くない絶望の中にある青少年たちには、もしかしたら私の助言が役に立つかもしれない。というのも、先にも述べたように、私自身もかつては(そして多少なりとも今も)、やはり世の中に絶望し不満をもらしていたから。前回、ニーチェという哲学者の言葉に出会ったことで、私は生きることを前向きに考えるようになったという話をした。そのように、若き頃の私も生きることに後ろ向きになっていた。ただ、そこから回復した私自身の経験を踏まえ、いまだ後ろ向きであった時代の私に対して、今の私は何を助言するか。それは、

 

世界に絶望したとしても

別に4ななくていい

 

ということだ。

 

 

えてして、若かりし頃のわたしは、一切合切、物事を極端に考える傾向が強かった。プラスの反対はマイナス。プラスが成り立たないのであればマイナス。その中間にたくさんの余白があることに気が付かない。いわゆる100対0の思考。しかし、世の中大半は100でもなければ0でもない。100対0思考は、ある意味気持ちよく、マッチョかもしれないが真理ではなかった。

同じように「世の中が◯ソだから生きる意味がない」ということではない。「自分は生きちゃいけない人物だから4んだ方がよい」というのも違う。「世の中◯ソで生きる意味はおそらくないかもしれないが生きていい」し、「自分は生きちゃいけない人物かもしれないが、別に4ぬ必要はない」。両極端の間には余白があり、そこに身をおけばいいと考えれば、絶望しても悲観しなくてすむ。若かりし頃の私には、そういう考え方ができなかった。

だから、役に立つかどうかわからないが、世の中に絶望してしまっていた若かりし頃の自分自身に言い聞かせるその延長で、今、世の中に絶望している青少年たちに届いてほしい。別に世界に絶望したとして、それを悲観しなくていいし、だからといって4ぬ必要はますますないと。

 

 

※※※『ショーペンハウアー』※※※

前回、ニーチェについて書いたあと、久しぶりにニーチェについて調べてみたいなと思って動画を見ていたら、ニーチェショーペンハウアーの影響を受けたとあった。ショーペンハウアーは、私のイメージでは「ペシミスト悲観主義者)」。とにかく、世の中を悲観しているネガティブなオッサンというイメージだった。しかし、ニーチェの前向きな思想にどういう影響を与えたのだろうと気になったので、上に添付した本を購入して読んでみた。

…衝撃的であった。

読書をしていると、ときどき、こういう「出会い」がある。

「この人は自分と全く同じことを悩んでいたんだな」と(おこがましいが)。

おそらく、若かった頃には感じなかったであろうが、40も半ばに差し掛かり、色々と世の中の矛盾ややるせなさなどに打ちひしがれて事実というものを知り始めた今だからこそ刺さったというのもある。ただ、自分が今、問題だと思っている同じことを問題として取り上げ、そしてなにより、それをどのように克服しようとしたのか、その過程をこんな安価な値段で知ることができるというのは僥倖でしかない。私は別に大した読書家ではないが、こういう出会いのために読書をしていると言っても過言ではないだろう。

そして、ショーペンハウアーは、確かにペシミスト悲観主義)と言われているのであるが、その人の思想は東洋哲学そのもので、インドとか仏教とかの考え方を西洋に持ち込んだということのようだ。お釈迦さまも「世の中は苦」といって、その苦から脱出することをテーマにした。出発点、つまり「世の中は苦」、これが悲観ということなのだろう。しかし、そこから脱出することを追い求めたのがお釈迦さまであり、ショーペンハウアーもそうなのだった。

書きたいことはたくさんあるが、あまり書きすぎてはこれから読みたい人にとって邪魔になると思うのでこの辺にしておこう。気になった方は、上の画像から楽天に飛ばれたい。